グレートブリテン島の誕生
現在イギリスと呼ばれる国家は、主に、グレートブリテン島とアイルランド島の一部、その他の領土から構成されています。正式名称は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国です。
しかし、かつてグレートブリテン島はヨーロッパ大陸と繋がっていました。この時代に、大型動物などを追って、狩猟住民が流入しました。
紀元前8500年以前には、島と大陸は完全に分離していたと言われています。
石器・青銅器時代
紀元前2200年頃には、ビーカー人と呼ばれる人々が流入し、青銅器文化を伝えました。
ケルト人がブリテン島に定住すると、先住民族を追い出しより強固な鉄器文明を築きます。
Pete LinforthによるPixabayからの画像
後ににこの地は、ローマによって「ブリタニア」と呼ばれるようになります。
ローマ・ブリテン
紀元前1世紀頃、ローマのユリウス・カエサルがガリア戦争の最中にブリタニアに侵攻しました。
しかし、2度にわたる侵攻は失敗し、ブリタニアはローマの支配を防ぐことができたのです。
ローマが帝政を開始し「ローマ帝国」になると、ブリタニアは再びローマの脅威に晒されます。4代皇帝クラウディウスは、自ら約4万の大軍を率いブリタニアに侵攻しました。
そして、ローマはブリテン島の南東部を支配下に置くことに成功します。属州ブリタニアの成立です。(ブリタンニア)
その後もローマはの属州ブリタニアの反乱を鎮圧しながら徐々に勢力を広げ、西暦85年頃にはスコットランドまで到達しました。そして、皇帝ハドリアヌスは北部スコットランドからの圧力を防ぐ為、有名な「ハドリアヌスの長城」を築いたのです。
UnsplashのToa Heftibaからの画像
しかし、ローマの支配にも陰りが見え始めました。
4世紀に入ると、ブリタニアは異民族の襲撃を受けるようになります。ローマ帝国は広大な領土を得たものの、帝国辺境の防衛には手が回りませんでした。結局、ローマは属州ブリタニアを手放すことになります。ローマの支配から脱却したブリタニアですが、今度はゲルマン系のアングロ・サクソン人が大陸から渡来し、原住民達を西へ追いやってしまいました。
「イングランド」という名前は、「アングル人の土地」という意味が由来となっています。
そして、西へ追い出された人々は、アングロ・サクソンとは異なる独自の文化を築いていくことになるのです。
七王国時代
ブリタニアの中央・南東部を手に入れたアングロ・サクソンの人々は、幾つもの小集団を作り、集合合体を繰り返し、小さな国が形成されました。そして、最終的に七つの大国が覇を競い合う時代に突入します。
[[File:Anglo-Saxon Heptarchy.jpg|thumb|バーソロミューの「ヨーロッパの文学および歴史的地図」による七王国(1914)]]
七つの大国
ノーサンブリア王国
マーシア王国
エセックス王国
ウェセックス王国
ケント王国
サセックス王国
戦乱の序盤は、ノーサンブリア王国やマーシア王国が勢力を拡大します。
マーシア王国ではエゼルバルド王が家臣に暗殺されると内乱状態に陥いりました。この内乱を鎮めたのが、オファ王です。彼は、国内を安定させると他の王国に襲いかかり、マーシア王国の勢力を拡大しました。
内政では、「銀ペニー貨」を発行しました。この銀貨にはオファ王の横顔が刻まれており、その後イングランドの硬貨の基礎となります。
[[File:Offa king of Mercia 757 796.jpg|thumb|Offa king of Mercia 757 796|alt=Offa king of Mercia 757 796.jpg]]
しかし、マーシア王国の安定ははオファ王個人の資質による属人的なものだったので、彼の死後マーシア王国は急速に衰えていきました。
830年代頃から北海周辺ではデーン人という北ゲルマン系の民族が侵略を繰り返していました。
彼らはのちに「ヴァイキング」とよばれるようになりました。
デーン人はついにイングランドにも侵攻し、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、が滅ぼされました。次に狙われたのが、ウェセックス王国です。
デーン人侵攻の最中、ウェセックス王国に即位たのがアルフレッド王です。彼は、デーン人を撃退し、デーンロウまで撤退させます。
のちに、ウェセックス王国はイングランドを統一し、イングランド王国へと変化していきます。
11世紀には、再びデーン人の侵入し、カヌートがイングランド王として即位すると「デーン朝」が成立します。