イギリスの歴史 第2章(ノルマン征服~テューダー朝)

ノルマン征服

カヌート(クヌート)が築いたデーン朝は、彼の死後すぐに崩壊してしまいます。

カヌートの死後に起こった王位継承の混乱の結果、アングロ・サクソン人のエドワード(証聖王)が即位しました。

エドワード懺悔王 [File:Bayeux Tapestry scene1 EDWARD REX.jpg|thumb|Bayeux Tapestry scene1 EDWARD REX]]

エドワード王は長い間ノルマンディーで過ごしていた為、フランス語を使用し、側近もノルマン人ばかりでした。その結果、イングランドの家臣との間に軋轢が生じ、統治は困難を極めました。

さらに、彼には後継がいなかった為、かつて親交のあったノルマンディー公ギヨームを後継者として指名します。

しかし、イングランドの有力者はウェセックス伯ハロルドを国王として選出し、ハロルド2世として即位してしまいました。

これに反発したのが、ノルウェー国王ハラールとノルマンディー公ギヨームです。

イングランド王位を巡る三つ巴の争いが勃発します。

Tapisserie de Bayeux – Scène 51 (partielle) : la bataille d’Hastings, chevaliers et archers normands.

ハロルドはイングランドの有力者を味方につけ、ハラールの軍との戦闘に勝利します。ハラールはこの戦いで戦死しました。

次に、ノルマンディー公ギヨームはイングランドに上陸し、ハロルド軍と一進一退の戦闘を繰り広げます。

戦闘の結果、ハロルドは戦死し、ギヨームはイングランドの都市を次々占領してきました。こうして、イングランド王位を巡る争いは、ノルマンディー公ギヨームが勝利しました

そして、彼はウィリアム1世としてイングランド国王に即位しました。ノルマン朝の成立です。

ノルマン朝

ウィリアム1世は、ウェストミンスター寺院で盛大な戴冠式を行います。この日はクリスマスでした。

ウィリアム1世

出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:King_William_I_(%27The_Conqueror%27)_from_NPG.jpg

しかし、新王の即位を認めないイングランド北部やウェールズ辺境部の有力者たちは次々反乱を起こします。

これらの反乱をウィリアム1世は全て鎮圧していき、イングランドの土地の所有者はノルマン人に分け与えられます。更に、カンタベリー大主教をはじめとする、教会の有力者もノルマン人が独占することになリました。

ノルマン征服は言語にも影響を与えました。イングランド貴族社会では、フランス語が使用されるようになり、公式文書も、ラテン語・フランス語で書かれるようになります。英語は庶民の使う言語となりました。

イングランドを征服した後も、ウィリアム1世は内外の敵と対峙しなければなりませんでした。

ウィリアム1世はイングランド王であると同時に、ノルマンディー公でもあります。海を渡った大陸の所領も防衛しなくてはなりません。フランスの王フィリップ1世はノルマンディー公の影響を削ぐため、フランスの有力貴族と手を組みウィリアム1世と対峙しました。更に、ウィリアム1世の長男であるロベールもフランス国王と手を組み、反乱を起こします。

そして、フランスとの戦争で負った傷が原因でウィリアム1世は死去します。

次のイングランド国王には、ウィリアム1世の3男ギョームがウィリアム2世として即位しました。

ウィリアム2世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_School_-William_RufusGoogle_Art_Project.jpg#/media/File:British_SchoolWilliam_Rufus-_Google_Art_Project.jpg

その後、長男でノルマンディー公のロベール、4男のアンリを巻き込んだ王位を巡る争いが勃発しますが、ウィリアム2世は急死してしまいます。

ウィリアム2世が死んだ際、偶々近くにいたのが4男アンリでした。彼は、すぐに行動を起こし、ヘンリ1世として即位します。

ヘンリ1世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry1.jpg#/media/ファイル:Henry1.jpg

これに激怒したのが、兄であるノルマンディー公ロベールです。ヘンリ1世とロベールは何度か争った後、ヘンリ1世が勝利し、ノルマンディー公の地位を奪い取ります。

イングランドとノルマンディーの広大な領土を統治したヘンリ1世にも悩みがあリました。それが、後継者問題です。

ヘンリ1世には、ウィリアムという息子がおり有力な後継者と目されていましたが、事故で死亡してしまいます。

悲しみに暮れるヘンリ1世でしたが、娘のマティルダを後継者として認めさせることに成功します。

マティルダはアンジュー伯ジョフロアと結婚し、幸いにも後継に恵まれ、長男アンリが誕生します。

ヘンリ1世が死去すると、彼の甥であるモンタン・ブーローニュ伯エティエンヌはイングランドに上陸し、弟のウィンチェスター司教と共にカンタベリー大主教を説得します。その甲斐あってか、エティエンヌは王位継承を認められ、スティーブンとしてイングランド国王に即位しました。

スティーブン
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stepan_Blois.jpg#/media/ファイル:Stepan_Blois.jpg

これをよく思わない人物が一人います。そう、マティルダです。スティーブンとマティルダの争いは、やがてイングランド王国の内乱に発展し、約20年続きました。

結果として、スティーブンが死ぬまで王として即位し続けることと、マティルダの息子アンリが次期イングランド王として即位することで決着がつき、内乱は終結しました。

プランタジネット朝

約20年続いた内乱の末、マティルダの息子アンジュー伯アンリは、イングランド国王ヘンリ2世として即位します。

ヘンリ2世が即位したイングランド王国が統治する領土は非常に広大になっていました。まず、イングランドとノルマンディー公領に加え、父から受け継いだアンジュー伯領、妻が相続権を持つアキテーヌ公領を保持していました。大陸の所領は、フランス王国の西半分にまで及んでいました。これらの領土はアンジュー帝国と呼ばれるようになりました。

ヘンリ2世は内乱で奪われたイングランド国内の所領や王権の回復を行ないました。帝国の安定に苦心した王でしたが、晩年は息子達と対立してしまいます。相次ぐ、息子達とフランスの王侯との戦いの最中ヘンリ2世は死去します。

残されたアンジュー帝国を受け継いだのは、ヘンリ2世の3男であるリチャード1世でした。

リチャード1世は、十字軍への参戦や弟のジョンとの争いなど、在位中は戦争に明け暮れ、獅子心王と呼ばれました。

リチャード1世は武勇を誇った王でしたが、戦闘で負った傷が原因で亡くなってしまいます。

彼は後継を残さなかったので、次のイングランド王には弟のジョンが即位しました。彼は、父であるヘンリ2世から土地を与えられなかったことから、失地王とも呼ばれています。

末弟のジョンは幸運にも王位を手に入れましたが、彼の在位中は苦難の日々でした。

ジョンはフランス国王フィリップ2世との対立が原因で大陸の領地の大半をフランスに奪われ、彼の評価は一気に転落しました。更に悪いことに、ローマ教皇とも対立し、破門を宣告されてしまいます

結局、ジョンが教皇に跪くことで破門は解かれました。しかし、度重なる王の失策に痺れを切らしたイングランドの貴族たちは、王権の抑制を盛り込んだ大憲章(マグナカルタ)をジョンに認めさせます。

マグナ・カルタの認証付写本(1215年)
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Magna_Carta_(British_Library_Cotton_MS_Augustus_II.106).jpg#/media/ファイル:Magna_Carta_(British_Library_Cotton_MS_Augustus_II.106).jpg

ジョンの死後、即位したのがヘンリ3世です。父王死後、わずか9歳にして即位したヘンリ3世は諸侯と和平を結びます。

そして、諸侯大会議というものがイングランドでの政治において重要な役割を担っていくことになります。この諸侯大会議は、のちの議会の原型となるのです。

若王ヘンリ3世が大人になり親政を開始すると、大陸所領の奪還を目指します。しかし、もはや大陸に利権を持たないイングランド貴族達は軍事費のための課税を拒否します。大憲章(マグナ・カルタ)によって王の独断で課税はできなくなったのです。

なんとか戦費を調達したヘンリ3世でしたが、大陸への遠征はうまくいきませんでした。

そして、ヘンリ3世と議会の対立は頂点に達し、貴族達は国王に幾つかの要求を行い、これを認めさせます。度重なる課税の要求や独断で政策を進めたヘンリ3世に対する貴族の不満が爆発したのです。

貴族達は、「オックスフォード条款」「ウェストミンスター条款」を作成し国王に認めさせます。更に、ヘンリ3世とフランス国王との間でパリ条約が結ばれ、ヘンリ3世は一部大陸の利権を放棄することを認めました。

ヘンリ3世が亡くなると、長男がエドワード1世として即位します。

エドワード1世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edward_I_-Westminster_Abbey_Sedilia.jpg#/media/ファイル:Edward_I-_Westminster_Abbey_Sedilia.jpg

エドワード1世は父とは違い、議会を重視しました。治世前半はかなりの回数(30回に上ると言われている)議会が開催され、国王と議会の関係は比較的良好でした。

しかし、彼の治世は戦争に明け暮れていました。

まず、ウェールズ大公が治めるウェールズに侵攻し支配下に置きます。この際、エドワード1世の皇太子にウェールズ大公の地位を与え、これ以来、歴代の皇太子達はウェールズ大公の称号を与えられるようになりました。現在でも、イギリスの皇太子にはウェールズ大公の称号が与えられます。

次に、スコットランドの王位継承争いに介入します。

フランスとは良好な関係を築いていましたが、アキテーヌ領をめぐりフランス国王フィリップ4世と争います。

このように、次々戦争が起こったため膨大な戦費を賄わなければなりませんでした。その為、議会を開き諸侯に課税を求める必要があります。高額な課税に議会が反発したことで、エドワード1世の治世の後半では国王と議会は再び対立してしまいます。結局、エドワード1世がスコットランド遠征で亡くなるまで両者の対立は解消されることはありませんでした。

次のイングランド王エドワード2世が即位すると、またもや諸侯との軋轢が生じます。

その原因の一つが、エドワード2世の側近ピアーズ・ギャヴィストンでした。ギャヴィストンはガスコーニュ(フランス)出身で幼い頃からエドワード2世と親密な関係を持っていました。そんな彼は国王から寵愛を受け権勢を振います。いわば、外国人が自分たちの国で偉そうに振る舞っているのです。当然、イングランドの諸侯にとって面白くありません。諸侯達は王にギャヴィンストンを追放させ、イングランドで処刑してしまいます。

もう一つ諸侯を怒らせた出来事がありました。それは、エドワード2世が父王が進めていたスコットランド遠征計画を事実上放棄したことです。スコットランドに新たに土地を手に入れた諸侯は、せっかくの苦労が水の泡になってしまいます。

更に、イングランド国内が混乱している隙に挙兵したスコットランドの勢力に大敗したことで、王はますます議会に頼らざるを得なくなります。

そして、イングラン国内では、またもや寵臣と諸侯の政争が勃発します。結局、この政争が原因でエドワード2世は廃位されてしまいました。

次の国王には、皇太子エドワードがエドワード3世として即位します。

エドワード3世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edward_III_(18th_century).jpg#/media/File:Edward_III_(18th_century).jpg

エドワード3世は諸侯からの期待も厚い有能な人物でした。即位後しばらくて親政を開始すると、国内の問題を片付け、自らの子供を諸侯と縁組させることで、政権基盤を整えました。議会と良好な関係の構築や海軍の再編など安定した治世を築きます。

エドワード3世の時代は、イングランドの議会が大きな変化を遂げた時代でもありました。

これまでのイングランド議会では、騎士や市民といった州や都市の代表者が参加するようになったとはいえ、貴族や聖職者のみが参加する議会の方が多かったのです。それが、エドワード3世の治世では、州や都市の代表者が必ず参加することになりました。    

聖俗諸侯と騎士・市民の集まりは次第に別々に開かれるようになり、やがて貴族院・庶民院と呼ばれるようになります。

エドワード3世が議会との協調を重視したのにはある理由があります。

それは、フランスとの戦争です。

莫大な戦費を賄う為には、議会の協力が必要不可欠だったのです。

エドワード3世が即位した当時、イングランド王国は混乱の最中でした。周辺国にとっては、イングランドに付け入る格好の機会です。

エドワード3世にとって治世の初期は、ロバート1世をスコットランド国王と認め、フランスのヴァロワ朝フィリップ6世に臣従の礼を行うなど、屈辱の日々でした。

スコットランド国王ロバート1世が死去すると、エドワード3世は反撃を開始し、スコットランドで内乱を引き起こしました。そして、スコットランドから国王デイヴィット2世を追い出します。国王夫妻はフランスに亡命し、これによって英仏関係はさらに悪化しました。そして、こじれた両国の関係は修復することはありませんでした。

フィリップ6世が、エドワード3世の所領であるギュイエンヌ公領及びポンチュー伯領の没収を宣言すると、それに対抗して、エドワード3世はフランス国王の継承を宣誓しました

関係の冷え込んだ両国は遂に衝突し、英仏100年戦争が始まりました。

出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Battle-poitiers(1356).jpg#/media/ファイル:Battle-poitiers(1356).jpg

フランス北東部に侵攻したエドワード3世は、序盤は有利に戦争を進めます。

この戦勝を機に創設されたのが、現在まで存在するガーター騎士団です。

そんな最中、ヨーロッパ全土でペスト(黒死病)が流行し英仏両国でも多くの死者を出しました。

黒太子エドワードの活躍もあって、イングランド王国はアキテーヌ・ポンティユ・カレー・ギーヌなどを手に入れます。

しかし、黒太子エドワードが黒死病で死去すると、エドワード3世も後を追うように亡くなります。

そして、エドワード3世の孫、黒太子の嫡男であるリチャード2世がわずか10歳でイングランド国王として即位します。

フランスでも、幼少のシャルル6世が即位し、両国の戦争は一時小康状態を迎えます。

リチャード2世は、幼少時代は貴族達の補佐を受けて政治を行なっていましたが、次第に寵臣を重用する政治を行い始めました。これに諸侯は反発し、側近は追放されました。混乱はおさまったと思われましたが、さらなる問題が発生します。

リチャード2世はシャルル6世の娘を後妻に迎え、フランスとの和平を結んでしまったのです。この中途半端な和平に改革派の貴族たちは反発しました。しかし、リチャード2世は彼らを排除してしまいます。その中の一人である従兄弟のダービー伯爵は国外追放されてしまいました。そして、ダービー伯の父ランカスター公爵(リチャード2世の叔父)が死亡すると、リチャード2世はダービー伯からランカスター公爵の継承権を取り上げてしまいます。

不当に財産を取り上げた国王に対し諸侯は猛反発し、リチャード2世は廃位・幽閉され死亡してしまいました。

後継がいないリチャード2世の後継として、ランカスター公爵を継承したダービー伯がヘンリ4世として即位します。

ランカスター朝の始まりです。

ランカスター朝

ヘンリ4世の治世は初期から困難の連続でした。

リチャード2世の廃位をめぐる一連の混乱は、イングランド内外の勢力にとっての好機です。

ヘンリ4世は、ウェールズ、スコットランドなどで反乱に苦しめられることになります。

この困難を救ったのが、皇太子ヘンリでした。武勇に優れた皇太子は、反乱軍を次々打ち破ります。

父のヘンリ4世が病に倒れるようになってからも、王の代行を務めました。

しかし、同時に新たな問題が発生するようになります。政治に関わり始めた皇太子と国王との間で意見の対立が発生するようになったのです。フランスとの和平政策を主張する国王と対フランス強硬策を主張する皇太子の確執は徐々に大きくなります。その最中、ヘンリ4世は病によって急死してしまいます。

父ヘンリ4世の死によって、皇太子ヘンリはヘンリ5世として即位しました。

ヘンリ5世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry_V_of_England.jpg#/media/ファイル:Henry_V_of_England.jpg

ヘンリ5世は、フランスへの介入し、しばらく休戦状態にあった英仏戦争が再開します。

フランスに上陸したヘンリ5世は、優れた軍才を遺憾無く発揮し、フランス軍を殲滅します。この戦争で、多くのフランス貴族を捕虜にすることに成功します。

ヘンリ5世の快進撃は止まりません。フランス各地で連戦連勝を続け、最終的にフランスとトロワ条約を締結します。

この条約によって、シャルル6世の娘とヘンリ5世の婚姻、シャルル6世の死後ヘンリ5世とその後継者がフランス王位を継ぐことが決定しました。

英仏の戦いはイングランドの勝利かに思われましたが、現実はそう上手くいきません。

ヘンリ5世は赤痢によって34歳という若さで死去してしまいます。

ヘンリ5世が若くして亡くなった為、彼の息子は生後わずかでヘンリ6世として即位しました。さらに、立て続けに祖父シャルル6世が亡くなったことにより、フランス国王アンリ2世としても即位することになります。

1歳にも満たない赤子が、英仏の頂点として君臨することになったのです。

幼い国王は叔父である、ヘッドフォード公爵ジョングロウスター公爵ハンフリの補佐を受けます。

フランス国王として即位したヘンリ6世でしたが、シャルル6世の息子のシャルルはこれを認めず、シャルル7世としてフランスで抵抗を続けていました。

フランス国王を主張する両陣営の争いは加速していきます。ヘッドフォード公ジョンはフランスのオルレアン包囲を開始していました。

ここでかの有名なジャンヌ・ダルクが出現しフランス軍はオルレアンを解放します。その後もフランス軍は進軍しイングランド軍を蹴散らすと、シャルル7世はランス・ノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行します。

ジャンヌ・ダルク
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ingres_coronation_charles_vii.jpg#/media/ファイル:Ingres_coronation_charles_vii.jpg

しかし、ジャンヌ・ダルクはイングランド軍に捕えられ、火刑に処されてしまいました。

結局、イングランド内の政争やさまざまな要因が重なり、シャルル7世率いるフランス軍はイングランド軍を次々敗走させます。さらに、フランス軍はノルマンディー地方も制圧します。もはや、イングランドにこの局面を挽回する力はありませんでした。

最後はフランス軍によってボルドーが陥落し、英仏100年戦争は終結します。

薔薇戦争

英仏の戦争が終結しても、イングランド国内には平穏が訪れることはありませんでした。

プランタジネット家の血を引く、ランカスター家ヨーク家による内乱が勃発したのです。後に薔薇戦争と呼ばれる戦いの火種は、英仏100年戦争の時代から燻っていました。

ヘンリ6世は、対仏和平政策の一環でフランス王妃の姪マーガレットと結婚していました。鷹揚なヘンリ6世と違い、マーガレット王妃は気が強く、その上外国人ということもあって、イングランドの貴族たちから嫌煙されていました。

イングランド貴族内でも100年戦争の敗戦責任のなすりつけ合いが起こります。そして、エドワード3世の血を引くヨーク公爵リチャードが権力を握ると、マーガレット王妃との溝はさらに深まり両者は対立します。1455年にヨーク公リチャードがヘンリ6世に対し反乱を起こしたことで、ヘンリ6世のランカスター家とヨーク家の戦争が勃発します。

薔薇戦争の前半はヨーク家が優勢でした。

ヨーク陣営は1460年にヘンリ6世を確保することに成功します。

王座まであと一歩のところまで来たヨーク公リチャードでしたが、ランカスター陣営のマーガレット王妃の反撃に遭い戦死してしまいました。ヨーク公爵位は、リチャードの長男エドワードが継承しました。

1461年ヨーク公エドワードは、ロンドン入りしてエドワード4世として即位します。ヨーク朝の誕生です。

エドワード4世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_School,16th_centuryEdward_IV(1442-83)-_RCIN_403435Royal_Collection.jpg#/media/ファイル:British_School,_16th_centuryEdward_IV(1442-83)-_RCIN_403435-_Royal_Collection.jpg

念願の王位を手に入れたエドワード4世は、即位後身内の謀反によって一度王位を奪われましたが、無事に奪還しヨーク朝の確立に成功します。

ヨーク朝の地盤を確立したエドワード4世でしたが、1483年に早逝してしまいます。

ヨーク朝の次期王エドワード5世はまだ幼い少年でした。その為、幼王の補佐としてエドワード4世の弟グロスター公リチャードが護国卿に就任します。

しかし、グロスター公とエドワード5世の母である皇太后エリザベスは対立します。もともと、皇太后エリザベスの身分は低く王妃としては不適格であり、貴族達からは嫌われていました。そのような事情もあってか、エドワード5世は先王の私生児とされ、廃位されてしまいます。

代わりに王位に就いたのが、エドワード5世の叔父に当たるグロスター公リチャードです。彼は、リチャード3世として即位し盛大な戴冠式を行います。

リチャード3世は即位後、次々と謀反に見舞われました。さらに追い討ちをかけるように、皇太子エドワードが死去してしまいます。これにより、リチャード3世の世継ぎはいなくなりました。ヨーク朝断絶の危機です。

ヨーク朝が混乱すると、ランカスター家の血を引くリッチモンド伯爵ヘンリ・テューダーが立ち上がります。彼は、かつて王位を奪われたランカスター家の再興を目指していたのです。リッチモンド伯はボズワースの戦いでリチャード3世の軍を破ります。リチャード3世はこの戦いで戦死しました。

これによって、30年近く続いた薔薇戦争は終結しました。

テューダー朝

ヨーク朝を滅亡させたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーは、ヘンリ7世として即位しました。テューダー朝の始まりです。

ヘンリ7世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry_Seven_England.jpg#/media/ファイル:Henry_Seven_England.jpg

ヘンリ7世は血筋の上では正当性に弱みがあった。その為、エドワード4世の長女エリザベスと結婚することで、血筋の正当性を補ったのです。ランカスター家のヘンリ7世とヨーク家のエリザベスが結ばれたことにより、ランカスター家の赤薔薇とヨーク家の白薔薇が合体して、テューダーローズの紋章が誕生しました。

イメージ

即位初期は、ヨーク家の残党による反乱が多発しました。これらの反乱を切り抜けると、ヘンリ7世は、卓越した財政管理能力を発揮し、壊滅状態にあったイングランドの貿易を回復させます。また、自らが継承したランカスター公領とヨーク家の財産を上手く運用して収入を増やし、罰金制度を強化するなどの政策も行います。

外交では、欧州の大国と婚姻外交を繰り広げるなど、平和を維持する政策を行いました。歴代のイングランド王のように、大陸への拡大路線を採ることはありませんでした。

イングランドの強化を図ったへンリ7世の晩年は不幸の連続でした。皇太子アーサー、3男エドマンド、エリザベス王妃が相次いで亡くなったのです。

次のイングランド王には、ヘンリ7世の次男がヘンリ8世として即位します。

ヘンリ8世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry-VIII-kingofengland_1491-1547.jpg#/media/ファイル:Henry-VIII-kingofengland_1491-1547.jpg

ヘンリ8世は、カリスマがあり、音楽、狩猟、恋愛などを好んだと言われています。

外交では、父のヘンリ7世と異なり大陸への介入が見られました。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世や神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世と連合してフランスを攻めましたが、どちらも失敗してしまいます。

ヘンリ8世は複雑なヨーロッパ情勢に翻弄された上、イングランド内でもある問題に頭を悩ませます。それが、後継問題です。

ヘンリ8世の最初の妻となるスペイン王家のキャサリンは、ヘンリ8世の兄である皇太子アーサーと結婚していました。しかし、アーサーが死去すると、父ヘンリ7世はキャサリンを弟のヘンリ8世に嫁がせます。兄嫁との結婚はキリスト教の戒律では認められていませんでしたが、スペイン王家とローマ教皇庁の許可を得て婚姻が実現しました。

ヘンリ8世とキャサリンはなかなか子供に恵まれませんでしたが、やっと娘メアリが誕生します。しかし、ヘンリ8世は当時のイングランドを治めるには女王では不適格だと考えていました。

すでにキャサリンの侍女アンと親密な関係にあったヘンリ8世は、キャサリンとの離婚を進めます。

ここで大きな問題が発生します。キャサリンと離婚するためにはローマ教皇庁に婚姻無効を認めてもらわなければいけませんでした。そして、キャサリン妃は神聖ローマ皇帝カール5世の叔母で、カール5世はローマを占領中でした。ローマ教皇庁に圧力をかけカール5世は叔母の離婚を阻止します。

ヘンリー8世(左)とカール5世(右)と教皇レオ10世(中央)
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Henry_VIII_with_Charles_Quint_and_Pope_Leon_X_circa_1520.jpg#/media/ファイル:Henry_VIII_with_Charles_Quint_and_Pope_Leon_X_circa_1520.jpg

ヘンリ8世は、宗教改革議会を開き、自らをイングランド国教会の長とすることを認めさせます。アンとの結婚を強行したヘンリ8世でしたが、教皇から破門を宣告されてしまいました。これにより、イングランドはローマ教皇庁と決別し、イングランド国教会が形成されていくのです。

アンとの間には娘エリザベスが誕生しました。ローマ教皇庁と絶縁したヘンリ8世は、次に修道院の解体を行います。また、ウェールズの併合も行い、これ以降ウェールズから議会に議員が送られるようになりました。

アンと結婚した後も子供には恵まれず、ヘンリ8世はアンを姦通罪で処刑、次に結婚したジェーン・シーモアと結婚し念願の男児エドワードが誕生します。この後、ヘンリ8世は3度結婚を繰り返し世継ぎを求めましたが、子供は生まれませんでした。生涯に6度の妻を娶ったとされています。

ヘンリ8世は、肥満により死去します。ヘンリ8世の治世では、妻2人、何人もの側近が処刑され、好色、利己的、無慈悲か王であったとされています。

ヘンリ8世の後を継いだ皇太子はエドワード6世として即位しますが、幼く体が弱かったため、すぐに亡くなってしまいました。

エドワード6世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edward_VI_Scrots_c1550.jpg#/media/ファイル:Edward_VI_Scrots_c1550.jpg

次の国王には、エドワード6世の姉に当たるメアリが継ぐ予定でしたが、熱心なカトリック教徒であるメアリはイングランド国教会に合わないと考えた側近により、ジェーン・グレイという少女が担ぎ出されました。しかし、カトリック勢力と共に進軍してきたメアリの前には手も足も出ず、9日で廃位・処刑されていしまいます。

メアリ1世として即位した彼女は、ヘンリ8世とキャサリン王妃の娘でした。しかし、キャサリンの婚姻が無効化されたことで、メアリは私生時の扱いを受けていました。

メアリ1世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maria_Tudor1.jpg#/media/ファイル:Maria_Tudor1.jpg

熱心なカトリック教徒のメアリ1世は、イングランドをカトリックの国に戻そうとします。ローマ教皇庁に服従し、ヘンリ8世が定めた宗教改革の法律を廃止しました。さらに、プロテスタントを迫害し300人近くを処刑しました。これにより、メアリ1世は、ブラッディ・メアリーとして民衆から恐れられるようになるのです。

メアリ1世はスペイン国王フェリペと結婚していましたが世継ぎには恵まれず、メアリ1世の異母姉妹に当たるエリザベスが女王として即位します。

エリザベス1世
出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Elizabeth1England.jpg#/media/ファイル:Elizabeth1England.jpg

即位したエリザベス1世は、イングランド国教会の立て直し行いました。女王秘書長官ウィリアム・セシルをはじめとする有能な側近に支えられ、エリザベス1世は国王至上法礼拝統一法を制定し、これ以降国教会はイングランドで確固たる地位を築いていくことになります。

若く美しい女王は、生涯結婚することはありませんでした。しかし、自分との結婚は積極的に外交に活用します。当時ヨーロッパの一小国に過ぎないイングランドが生き残るには、ハプスブルク家やフランスのヴァロア家の間でうまく立ち回る必要があったのです。

結婚外交が使えなくなった後も、エリザベス1世の強かな外交は続きます。当時、欧州は宗教戦争によって混乱しており、エリザベス1世と側近たちは、それぞれの陣営に密かに支援を送り戦争の長期化を狙ってました。

また、当時強国だったスペインが新大陸の金品を運ぶ船を海賊フランシス・ドレイクらに襲わせていました。さらにスペインを刺激する出来事が発生します。イングランドに亡命中の前スコットランド女王メアリーが枢密院によって処刑されたのです。

カトリックの女王が処刑されたことに激怒したスペイン国王フェリーぺ2世は、無敵艦隊を英仏海峡に派遣します。そして、アルマダの海戦でイングランド軍の火船攻撃やアイルランドでの嵐によって艦隊は壊滅しました。しかし、この戦いでスペイン軍が壊滅したわけではなく、その後も戦争は続きました。また、アイルランドとの戦争も長期化し戦費は膨れ上がりました。治世の末期には、イングランドの財政状態は悪化し町には浮浪者が溢れることになります。

出典 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Loutherbourg-Spanish_Armada.jpg#/media/ファイル:Loutherbourg-Spanish_Armada.jpg

スペインの無敵艦隊の壊滅など、美しく力強い統治者としてのイメージがあるエリザベス1世でしたが、実際は非常に優柔不断であったとされています。イングランドの財政が悪化しても庶民からの人気は根強く、ローマ教皇庁との決別や大国との駆け引きの結果イングランドの独立を守った功績は讃えられました。そして、未婚で世継ぎを残さなかったテューダー朝最後の女王は、69歳で息を引き取ります。彼女の治世はイングランドの黄金期として歴史に名を残すことになるのです。

参考文献 物語イギリスの歴史(上) 著 君塚直隆  中公新書

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